BGMはノクターンさんよりお借りしています。





走れサトシ



彼はぼう然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、繋いだ舟は残らず波にさらわれて影も無く、渡守りの姿も見えない。 流れはいよいよ、膨れ上がり、海のようになっている。サトシは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを!時は刻々に過ぎていきます。 太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことが出来なかったら、あの良い友達が、私のために死ぬのです。」
 濁流は、サトシの叫びをせせら笑うごとく、ますます激しく躍り狂う。波は波を呑(の)み、捲き、煽(あお)りたて、そうして時は、刻一刻と消えて行く。 今はサトシも覚悟した。泳ぎ切るより他にない。ああ、神々も見ていてください!濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。サトシは、ざぶんと流れに飛び込み、 百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う波を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕に込めて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻き分け掻き分け、 めくらめっぽう獅子奮迅(ししふんじん)の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついにあわれみを垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、 すがりつく事が出来たのである。ありがたい。サトシは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐまた先を急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。 せいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に数人の山賊が躍り出た。
「待て。」
「何をするんだ。私は日没までに王城へ行かなければいけない。放せ。」
「絶対放さない。持ちもの全部を置いて行け。」
「私には命の他には何も無い。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるんだ。」
「その、命が欲しいのだ。」
「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたんだな。」
 山賊たちは、ものも言わず一斉に棍棒(こんぼう)を振り上げた。サトシはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥のごとく身近かの一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、
「気の毒だが正義のためだ!」と猛烈な一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙(すき)に、さっさと走って峠を下った。


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