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BGMはtaitai studio/さんよりお借りしています。





走れサトシ



 私は信頼されている。私は信頼されている。さっきの、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。 五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。サトシ、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。 再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。 待ってくれ、ゼウスよ。私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。
 路行く人を押しのけ、跳ねとばし、サトシは黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、 犬を蹴とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人とさっとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。 「いまごろは、あの男も、はり付けにかかっているよ。」ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。 その男を死なせてはならない。急げ、サトシ。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがいい。風態なんかは、どうでもいい。 サトシは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。 はるか向うに小さく、シラクスののまち塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。
「ああ、サトシ様。」うめくような声が、風と共に聞えた。
「誰だ。」サトシは走りながら尋ねた。
「フィロストラトスでございます。貴方のお友達セリヌンティウス様の弟子でございます。」その若い石工も、サトシの後について走りながら叫んだ。 「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方お助けになることは出来ません。」
「いや、まだ陽は沈まない。」
「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」
「いや、まだ陽は沈まない。」サトシは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。
「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。 王様が、さんざんあの方をからかっても、サトシは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。 私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいもののために走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス。」
「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」
 いうなら出来る。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、サトシは走った。サトシの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。 ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に沈み、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、 サトシは疾風のごとく刑場に突入した。間に合った。
「待て。その人を殺してはならぬ。サトシが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、 喉がつぶれてしわがれた声がかすかに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでにはり付けの柱が高々と立てられ、 縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。サトシはそれを目撃して最後の勇、さっき、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、 「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。サトシだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、 ついにはり付け台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、かじりついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。 セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。


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